同じ年齢の人がたくさん集まる場所というのは学校ぐらいしかありません。
 
 小学校なら6年間。
 
 中学校、高校なら3年間。
 
 卒業してしまえば、同じ学校にいた人と会う機会はほとんどありません。
 
 卒業してからは、自分の身近に同じ年齢の人が何十人、何百人もいるという環境はあまりありません。
 
 
 いじめをしていない人はどうでしょう、または自分はいじめはしていないと思っている人はどうでしょう。
 いわゆる傍観者の立場の人です。

 その人たちが何もしてくれないからといって攻めてはいけません。何をすれば良いのかわからないのです。

 そういう人たちはいじめられている人と話す機会があったとき、上から目線で話すことがよくあります。

 おそらくその人の物差しで「この人はいじめられているから自分より下である」、「私は知らないけど、この人は何か悪いことをしたからいじめられるのだろう」と無意識のうちに感じているのかもしれません。

 でも、その人が上でも、いじめられている人が下でも決してありません。
 
 対等です。

 いじめられている人と話すとき、上から目線で話していたことに気が付いた人は直すべきです。

 よく「おまえも悪いからいじめられるんや」と言う人がいます。

 言われた本人はいくら考えても自分の何が悪かったかわかりません。
 
 何も悪くないからです。何かあったとしてもほんの些細なことでしょう。
 
 「おまえも悪いからいじめられるんや」というのは何の助け言葉にもなりませんし、アドバイスにもなっていないことを知るべきです。


 あなたは我慢してくださいと言いました。
 
 あなたは二人のヒーロー(英雄)に助けられるかもしれません。
 
 ヒーローは現れず、助けられないかもしれません。
 
 多くの場合は現れていないような気がします。
 
 ただ、これからは現れるだろうことを期待しています。

 あなたは自分自身のヒーローにはなれません。
 
 あなたのヒーロー(英雄)は自分以外の人でしかなれないからです。

 しかし、あなたは自分以外の誰かのヒーローになることができるかもしれません。

 さて、私の言うヒーロー(英雄)とは?

 ひとりは「まーさん」タイプ。もうひとりは「なっかん」タイプである。
 
 「まーさん」、「なっかん」は単なるあだ名です。深く気にしないでください。

 次に述べるのはそんな「二人のヒーロー(英雄)」の話です。

 「まーさん」タイプは自分の仲良くしていた人から現れます。

 ずっと前からの知り合いが「まーさん」になることもあれば、いつの間にか自分のそばに現れて自分をいじめから救ってくれる場合もあります。

それは、クラス替えの時かもしれませんし、上の学校に変わったときかもしれません。
 
 「まーさん」はあなたのそばにいてくれます。

 ただ、そばにいてくれます。

 あなたがいじめられていることについては何も語りません。

 普通に友人として接してくれます。

 「まーさん」になるのはたいへんです。

 いじめられている人のそばにいると自分もいじめられるかもしれません。

 「まーさん」は他の友人をなくすかもしれません。

 相当な犠牲を覚悟しなくてはできません。

 ある日「まーさん」はいじめられている友人と一緒にいるときに、別の友人に呼び止められました。

 「まーさん」は友人に「ちょっと待っといてくれ」と別の友人の話を聞きに行きます。
 
 「まーさん」は別の友人との話が終わり、すぐ戻ってきました。

 「待たして悪かったな」と、別の友人に呼び止められる前とかわらない様子で歩き出しました。

 「まーさん」は別の友人にこう言われたのです。

 「おまえ、あいつと一緒にいたら、おまえもいじめられるぞ」と、「まーさん」はこう言いました。

 「知ってるよ。悪いけど用事あるし」と別の友人のもとを去りました。

 でも、「まーさん」はいつもあなたのそばにいられるわけではありません。

 学園祭の日「まーさん」はこう言いました。

 「さすがに今日はきついわ。悪いけど今日は俺、一緒におられへんわ」。

 いじめられている友人は言いました「おおそうか、またな」。

 いじめられている友人は一人で歩いて行きました。

 あなたは、わかってあげてください。

 「まーさん」も、いつもあなたのそばにいることができないことを。

 別のある日、「まーさん」は以前とは別の友人から呼び出されました。

 今回は「まーさん」の親友からです。

 いじめられている友人と一緒に遊んでいた「まーさん」はこう言いました。

 「誰々から呼び出されてるんやけど、おまえも一緒に待ち合わせ場所のそばまで行くか?」。

 待ち合わせ場所のそばまでくると「まーさん」はこう言いました。

 「俺、一人で行ってくるからちょっとここで待っといてくれ」と。

 親友との話が終わると「まーさん」は戻ってきました。

 待たされたのは数分ぐらいだったでしょうか。

 「まーさん」は言いました。

 「待たせて悪かったな」と。

 「まーさん」は親友からこう言われたのです。

 「おまえ、あいつといつも一緒にいるけど、そんなおまえといたら俺もいじめの標的にされるかもしれへん。おまえは、俺とあいつのどちらをとると言われたらどう答える?」と。

 「まーさん」はこう言いました。

 「悪いな、それやったらそれでええわ」と。

 そう言うと「まーさん」は親友のもとを去りました。

 「まーさん」はその親友だった人とその後、会うことはありませんでした。

 「まーさん」は他の友人が無くなろうが、自分もいじめられる可能性があるのがわかっていても、いじめられている友人のそばにいました。

 強い意志がないと「まーさん」にはなれません。

 いじめられている友人も助けてあげたい。

 他の友人ともつきあっていきたい。

 という中途半端な気持ちでは「まーさん」になれません。
 
 もうひとりの「なっかん」タイプはいじめている側から現れます。

 いじめの片棒を担がされていた「なっかん」は、ある日いじめグループの友人たちにこう言いました。
 
 「俺は、おまえらのやってることが気にいらへん」

 「俺はあいつのことはよう知らへんけど、まだ、いじめを続けるというんやったら俺はおまえらとのつきあいは今後やめる」

 「おまえらがいじめをやめると言っても俺は信用でけへん」

 「おまえらが蒔いたあいつの悪評は留まることしらずや、俺らの学年約400人知らんもんはおらへんどころか
他の学年にも、先生にも知れわたっとる。他校も知っとるやつがおる」

 「おまえらが蒔いた悪評を信じてるのか、そんな悪評はどうでもよくなってるのか俺にはわからへんけど、あいつをいじめるのが「正義」みたいなことになって、方々であいつに対するいじめや嫌がらせが一人歩きしとる。もう収拾がつかへん」

 「俺は、おまえらがやってることは許せん。やめると言うんやったら、おまえら別々にひとりずつあいつに謝りに行け」と。

 最終的にその「なっかん」の言葉でいじめはある意味終結した。

 いじめの中心であった3人は謝りに行った。「なっかん」に言われたとおりそれぞれの気持ちを丁寧に伝えて謝った。
 

 しかし、最後の4人目は謝りに行かず、その約半年後偶然であった時にこう言った。

 「他のやつが許しても、俺は許せへんからな。」
 
 自分たちが作り上げた悪評を信じ込んでいるのかはわからない。

 自分だけは最後まで「正義」の味方と思っているのかもしれない。
 
 映画の悪役の捨てぜりふのように聞こえる。
 
 4人目の気持ちはどうであれ数年におよぶ長いいじめは終わったという。


 「なっかん」になるのもたいへんである。
 
 よく知らない人のために、自分の友人との縁を切るというのであるから。
 
 よほどの正義感がないことには、とてもできないことである。
 
 「なっかん」も正義の味方である。


 なぜヒーロー(英雄)なのか?

 いじめられている人をいじめから救ったのであるからヒーロー(英雄)である。
 
 ただし、ヒーロー(英雄)と思ってくれるのは、その助けられた人ひとりだけである。 

 他の誰もがそんなヒーロー(英雄)がいたことも知らないのである。


 あなたには二人のヒーローが現れるかもしれない。
 
 「まーさん」だけ現れるかもしれない。

 「なっかん」だけ現れるかもしれない。

 二人とも現れないかもしれない。


 しかし、あなたは誰かのヒーローになれるかもしれない。

 いじめはあってはいけないものだと思う。

 いじめにあった本人しか、そのつらさはわからないと思う。

 いじめを無くすためには、あなたは誰かに伝える勇気を持たなくてはいけない。